这篇文章的中心思想作者主要想表达什么(j-j9九游会登陆入口
本帖最后由 咖啡新人 于 2009-10-30 17:15 编辑
不思議な日本語の使い手の四十年史
世代論は嫌いだが、少しだけ個人的なことを、井上陽水が実質的にデビューした「断絶」(1972年)や大ヒットになった「氷の世界」(1973年)を聴いたとき、私は九州の中学生だった。買ったばかりのギター一日中、陽水を弾いていた。勝手な思い込みだが、陽水に「地元のスター」というイメージを抱いていた。
あれから40年。井上陽水という希有の才能の奇跡を辿りながら感じたのは、この人は、共同性への強い希求と諦めがいつも同居しているということ。
自分のアルバムが爆発的に売れる。ランキング1位を独走する。そこに喜びがある。だが「野球場で巨人の原選手が逆転ホームランかなんか打って、球場全体が一丸となって拍手している状況」をマズイと思う気持ちが常にある。つまり、一色に塗り籠められるのをひどく嫌う。
「傘がない」という名曲を思い起こそう。社会は騒然としているかもしれないが、降る雨のなか、傘がないことのほうが僕に重要なので、ということを歌っていた。個的な経験を歌って、社会派と言われる時代。だがいまはそうではない。極度に限定されたリアルの中でしか、私は生きていない。
だからこそ、陽水は奇跡的だ。すでに何十年も、普遍的なリアルを歌い続けているのだ。明日に向かっていけ!とか、いろいろあったけどオレたちは今ここにいる。といった立ち位置確認のリリックとも明らかに無関係だ。
不思議な日本語の使い手の、四十年の重みの詰まった魅力的な本。
大概是说作为个性派歌手,井上的成功是一个时代的奇迹。因为在当今,
成功的往往是一些大众的东西。